最初の女帝

飯豊女王、またの名を忍海部女王は第22代清寧天皇亡きあと、忍海高木角刺宮において政務を執り行ったことが「古事記」、「日本書紀」に記録されて います。「飯豊青尊(いいとよあおのみこと)」を名乗ることから、大王つまり天皇としてこの政務にあたっていたものと考えます。

この飯豊については歴代天皇の系譜には記載がありません。それは記紀の記述において他の天皇と差異があることなどに理由があるのでしょう。しかし、 記紀の記述内容を読み込めば、飯豊は短期間とはいえ大王(天皇)の地位にあったと考えることはごく自然なことだと思われます。同様のことを先人達も考えた のでしょう。平安時代の書物である「扶桑略記」には第23代天皇として「飯豊天皇」の名があげられています。

飯豊の出自については、二通りの解釈があります。ひとつは第*代履中天皇と葛城氏出身の黒媛の間に生まれた娘とする考え方です。もう一つは、同じく 履中天皇の息子である市辺押羽皇子(いちべおしはわけのみこ)と葛城氏出身の●媛(はえひめ)の間に生まれた娘で、後の仁賢・顕宋天皇となる兄弟の姉とす るものです。いずれにしても当時の大王家に連なる人物として高位に位置していたことは間違いないようです。

第21代雄略天皇は、その即位後の時期に自分の地位をおびやかす王族を次々にほうむっていきました。王族にかかわらず旧来からの大豪族を滅ぼすな ど、好戦的に見えますが、結果として大王中心の中央集権体制を築くことを可能としたと評価できます。しかし、後継たる息子である第22代清寧天皇はさらな る後継をもうけぬまま夭折してしまいます。後継者になりうる男子は、雄略天皇によってことごとく殺されていたため、ここに次代の大王位を占める人物がいな いという事態に陥ってしまうのです。

ここで飯豊が登場するのですが、「古事記」と「日本書紀」ではその役割のニュアンスが異なります。

「古事記」では、清寧天皇の亡きあと請われて位につきます。その後、仁賢・顕宋兄弟を発見します。「日本書紀」では清寧天皇在位の間に次の天皇とな る仁賢・顕宋兄弟を発見されますが、この兄弟が次の位を譲りあい大王(天皇)位の空白が生じそうになります。そこで仕方なく飯豊が位につく、という話が語 られています。飯豊が大王の位を一時占めるという意味ではどちらも変わることはありませんが、「古事記」と「日本書紀」ではその重み、意味合いがまるで違 うのです。

飯豊の位につく背景は、「古事記」記載内容が真実に近いのではないかと考えます。王権危急の時に大王位をしめ、次代の大王の発見とともにあわただしく歴史の表舞台から立ち去った最初の女帝は、いまや確実に私達の記憶から消えつつあります。

「古事記」「日本書紀」ともに飯豊を天皇としなかった理由は詳らかでありません。当時の政権の混乱からくる記録不足を原因として考えることもできる でしょう。「日本書紀」などに断片的に登場する飯豊に関する記述からは、そのもととなる記録の存在をうかがわせます。しかし、このもとの記録が十分でな かったためか、あるいはそれ以外の理由によって飯豊”天皇”の存在はあやふやなものとなってしまっているのです。

しかし「日本書紀」は記述しています。飯豊は亡くなった後「埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)」に葬る、と。「陵」は天皇の墓にしか用いられない表現です。認識、扱いの上ではやはり飯豊は大王(天皇)であったと言わざるをえないでしょう。

現在「埴口丘陵」は葛城市北花内にある北花内大塚古墳がそれとされ、飯豊天皇陵として宮内庁に管理されています。ここでもやはり「天皇陵」です。現在においても飯豊は、少なくとも名目上は天皇として扱われているのです。

葛城市歴史博物館の南側にある角刺神社(つのさしじんじゃ)は、飯豊が政務を執った忍海高木角刺宮の伝承地です。祭神は飯豊青尊。

ひっそりとしたたたずまいの神社ですが博物館へお寄りの際は、ぜひ訪ねていただきたいと思います。また、徒歩20分ほどで飯豊の眠る「埴口丘陵」にたどりつけます。葛城で忘れられた最初の女帝に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

(●は、くさかんむりに夷)

角刺神社

北花内大塚古墳