飯豊天皇(いいとよてんのう)

五世紀末ごろ、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)によって葛城氏の宗家が滅ぼされました。その雄略天皇の死後即位した清寧天皇は、跡継ぎを残さないまま死去します。やがて、後継者を決めるため、葛城の忍海の人々が大王家につながる二人の皇子を見つけ出します。ところがこの皇子たち、億計王と弘計王の兄弟は互いに譲り合って、なかなか皇位につこうとしません。

そこで、王位の空白を埋めるために臨時に政務を執り行ったのが飯豊女王でした。忍海の「高木の角刺宮」で政治を行い、その皇居は歌に詠まれるほど美しいものだったそうです。

倭辺に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺の宮(『日本書紀』)

(意味:大和のあたりで見たいものは、忍海にあるこの高城の角刺の宮です)

飯豊天皇は、歴代天皇の系譜に名前を連ねていません。あくまでも臨時に政権を執っただけなので、正式に即位したとはみなされなかったからです。『扶桑略記』()には「飯豊天皇」と記載されているものの、いくつかの記録があり、飯豊天皇の記述は一致しません。履中天皇の子とされたり、市辺押磐皇子の子とされたりします。ただ忍海部女王の呼ばれていたことからも分かるように、飯豊女王がここ葛城の忍海で一時天皇の位につき、政治を執り行ったようです。

飯豊天皇は、北花内にある墳墓「飯豊天皇埴口丘陵」に眠っています。現在も忍海の人々は、角刺宮の伝承地とされる角刺神社の横の忍海寺に安置される十一面観音菩薩立像(平安時代)を「飯豊女王の化身」と言い伝え、歴史から忘れ去られた女帝をしのんで毎月17日に法要を行っています。

※平安末期の天台宗の僧皇円が神武天皇から堀河天皇までの事柄を編年体で記した歴史書

も三〇巻と伝え、うち十六巻と抄本が現存(仏教関係の記事が多く出典を明示している)。