大伯皇女と大津皇子

更新日:2021年03月01日

大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子(おおつのみこ)

本市で『万葉集』ゆかりの歌人として忘れてならないのは、大伯皇女(661年~702年)と大津皇子(663年~686年)姉弟です。
二人は天武天皇を父に、天智天皇の皇女・大田皇女を母に生まれました。やがて姉の大伯皇女は伊勢の斎宮(注釈)に召されます。弟の大津皇子は「体格や容姿が逞しく、寛大。幼いころから学問を好み知識は深く、見事な文章を記した。長じては武芸にすぐれ、その人柄は自由闊達つ皇子ながら謙虚、多くの人々の信望を集めた」(『懐風藻』)と、将来を嘱望される皇子に成長したようです。
ところが天武天皇崩御の後、川島皇子の密告がもとで謀反のかどで捕らえられ、磐余にある訳語田(現奈良県桜井市)の自宅で死を賜りました。皇太子草壁皇子の即位の妨げになるためだったとの説もあります。辞世の歌として、
ももづたふ磐余の池に鳴く鴫を 今日のみ見てや雲隠りなむ
が、『万葉集』巻三・四一五に残されています。
弟への慈愛を母のように注いだ皇女は、弟を案じ、その死に臨んで悲嘆に暮れる歌を詠んでいます。伊勢を訪ねた皇子が帰途についた際
わが背子を大和に遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし (巻二・一〇五)
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (巻二・一〇六)
皇子の亡がらは、二上山に移葬されました。雄岳頂上には、大津皇子二上山墓が築かれています。
うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背とわが見む (巻二・一六五)
(注釈)「いつきのみや」とも呼ばれ、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替わりごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣された。

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