第12回特別展「桑山一族の興隆」

更新日:2021年03月01日

第12回特別展「桑山一族の興隆-賤ヶ岳の合戦~大坂の陣-」

第12回特別展「桑山一族の興隆-賤ヶ岳の合戦~大坂の陣-」のチラシ

会期:2010年10月9日(土曜日)~11月28日(日曜日)
会場:歴史博物館特別展示室

(注意)下記のとおり特別展記念講演会をおこないました。
10月23日(日曜日)午後2時から
「桑山一族の興隆-桑山重晴を中心に-」
講師:講師:播磨良紀氏(四日市大学教授)
11月12日(土曜日)午後2時から
「天下分け目の戦いと桑山氏
講師:講師:藤田達生氏(三重大学教授)

開催にあたって

桑山氏は、慶長六年(1601)に新庄藩主として、新庄に入部し、それ以後、約80年にわたり葛下郡、葛上郡において二万石から一万石の領地をもつ大名として存在した。

この桑山氏発展の礎を築いたのが、初代藩主桑山一晴の祖父、桑山重晴であった。重晴は天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦において、柴田勝家軍に対し劣勢であった羽柴秀吉軍のなかで孤軍奮闘し、柴田軍を相手に賤ヶ岳城を守り抜き、羽柴秀吉軍圧勝のきっかけを作った。

秀吉死後におこった関ヶ原の合戦では、桑山氏は東軍に属した。その理由は、石田三成に対する日ごろからの怨みが原因であった。また、豊臣大名の多くが、東軍の主力として戦ったことからもわかるとおり、東軍方豊臣大名にとっての敵は、豊臣秀頼ではなく、あくまで石田三成であった。重晴の孫、桑山一直は、関ヶ原の合戦では、西軍方大谷吉隆の鉄砲頭を討ち取る働きをみせた。

関ヶ原の戦後処置として、桑山一晴が新庄に入部したのが、先述のとおり慶長六年(1601)のことである。新庄に入部した一晴は、さっそく藩の支配の要となる陣屋と陣屋町を築いた。桑山氏の本質は豊臣大名であった。陣屋町の建設の過程でも豊臣大名としての姿が随所にうかがえ、興味深い。

豊臣大名であった桑山氏が、完全な江戸幕府の大名として生まれ変わったのが、豊臣氏が滅亡した大坂の陣であった。大坂の陣において桑山氏は幕府方として参戦をした。冬の陣では、小山表において、有名な浪人大将後藤基次・薄田兼相軍を破る働きを見せた。この大坂の陣以降、桑山氏は江戸幕府の大名として安定した存在となった。

今回の特別展は、桑山氏興隆の時期であったといえる賤ヶ岳の合戦から大坂の陣までを中心に検討し、展示を行うことにする。

展示構成

  1. 賤ヶ岳の合戦
  2. 関ヶ原の合戦
  3. 新庄入部
  4. 大坂の陣

主な展示品

賤ヶ岳合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)、関ヶ原合戦図絵巻(岐阜市歴史博物館蔵)、

大坂夏の陣図屏風(岐阜市歴史博物館蔵)、桑山重晴木造(寶殊院蔵)ほか

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