葛城市出身力士

更新日:2021年03月01日

司天龍政吉(葛城市新庄出身・小野川(大阪)-玉垣-雷-八角部屋)

 初めは大阪相撲の小野川に入門し、鶴ヶ濱政吉のしこ名で十両格まで昇進する。明治13年東京相撲の玉垣に弟子入りし、三段目格で初土俵を踏む。明治18年5月場所、24歳で入幕、入幕2場所目の19年1月場所、前頭9枚目で大関剣山、新鋭の嵐山と引き分け以外は連勝し、7勝2分で平幕優勝を果たす。当時は個人優勝の制度がなかったため日本相撲協会の公式記録の優勝力士には名前がない。21年5月に司天龍と改名した。25年1月には無敵常勝大関の小錦を破る殊勲の星を残す。26年5月場所に自己最高位の小結に昇進する。
28年1月場所限りで引退し、年寄「中立」を襲名した。大正2年に死去。葛城市大屋慶雲寺に「初代鶴ヶ濱政吉」のお墓がある。

鶴ヶ濱増太郎(葛城市長尾出身・中立-朝日山(大阪)-中立-荒磯部屋)

初め東京相撲で大鶴のしこ名で初土俵を踏むが、病気のためすぐに帰郷、しばらくして大阪相撲で三段目格付出しで取る。明治45年5月、再度東京相撲に戻り、大正7年1月に新十両、同10年1月には入幕を果たす。均整の取れた体格で、足腰が強く、右四つからの吊り寄りを得意とした。大正11年1月場所には大関の千葉ヶ崎、源氏山を破り9勝1敗の成績で、掲額制度以降3人目の平幕優勝を成し遂げた。大正12年5月場所、自己最高位の小結に昇進する。大正12年の三河島事件の際、力士側の委員を務め、力士の待遇改善に尽力した。大関も期待されたが、横綱昇進予定の宮城山との相撲で脚の関節を痛め、それが影響して大正15年5月場所後に引退する。年寄「玉垣」を襲名。千葉県市川市の料亭「小松園」を経営する。昭和14年45歳の若さで他界。

二瀬川政一(葛城市薑出身・朝日部屋)

同郷の真鶴を慕って朝日山に入門する。昭和6年5月場所、福原のしこ名で初土俵を踏む。順調に出世し13年1月に新十両。15年5月に新入幕を果たす。回転の速い突っ張りからの右差し、重い腰を利用しての寄りを得意とした。入幕場所は、東軍の双葉山、羽黒山、玉ノ海らの上位陣が途中休場したため東西制の影響で、横綱男女ノ川と対戦する。新入幕の場所に横綱と対戦することは明治40年5月場所以来33年ぶりの事だった。その後常時幕内上位で活躍する。昭和19年1月に自己最高位の関脇に昇進するとともに、年寄朝日山を襲名し、現役と師匠をかけ持つ二枚艦札になった。22年6月に引退し、勝負検査役等の役職を務めた。昭和34年43歳の若さで他界。

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